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11/29
昼間は、何してたっけか、忘れた。
夜、稽古。

梅ヶ丘で飲む。30分に一品ずつしか料理が出てこない。
どうやらおやじが一人で作ってる。
塩焼きそばの味がない。
焼き鳥の盛り合わせは、2種類のみ、しかもネギマのネギが真っ黒。
ひでぇ。


11/30
昼、稽古。
大枠が見えてきた、見えてきた、というより、思いついたか。
いけるかなぁ。

アゴラで打ち合わせて、その後キラリで打ち合わせ。
松本の話など。

鶴瀬で飲む、終電を逃し、結局6時くらいまで飲む。


とりあえず、来年3月と5月の公演の諸々をなんとかせねば。
動き出さねば。
3月とか、もうチラシ作っても良い頃だ。チラシのアイデアはある。

12/1
鶴瀬から帰宅し、稽古へ。
なかなか良い手帳が見つからない。
年明けが、あり得ないことになりそうだ。



東京公演休止にあたって、東京以外の劇場とのやり取りなどが、まぁぼちぼちあったりするんだけども、
基本的には、公共ホールを中心に展開していきたいと思っています。
そして、色々話したりすると、「わかりやすい作品」という単語がちらほら出てくる。
「わかりやすい作品」をやってくれ、と言う事じゃなくても。

この「わかりやすい」について、もやもやがちょっと晴れてきた気がするので書き連ねます。

特に公共ホールでは、ホールの状況によって差はありますが、そこを無視できないのは当然なのですが、ようするに、「あまり観客から文句を言われない作品」という意味で、そりゃ税金で運営しているわけだから、市民が喜ぶ作品を上演するのは、当然のことなんですけども、多分、じゃないな、絶対に、今後戦っていかなきゃいけないのは、この問題になるだろう。

なぜ、文句を言われるのか?

「わかりやすい」とは何か?

「わかりやすい」絵画、「わかりやすい」曲、「わかりやすい」ダンス、「わかりやすい」映画、「わかりやすい」演劇。

そもそも、「わかる」とは何か?

(1)物事の意味・価値などが理解できる。
「意味が―・る」「音楽が―・らない人」「英語の―・る人」

(2)はっきりしなかった物事が明らかになる。知れる。
「真犯人が―・る」「答えが―・る」

(3)相手の事情などに理解・同情を示す。
「―・った、なんとかしよう」「話の―・った人」

(4)離れる。分かれる。
「八宗九宗に―・りてより/浮世草子・禁短気」

まぁ(1)か、物事の意味、価値が理解できれば良い、ということか。

ロミオとジュリエットを「だるまさんがころんだ」をしながら演ずるの事の意味、価値は理解しやすいだろうか。
マクベスを「椅子取りゲーム」をしながら演ずることの意味、価値は理解しやすいだろうか。
目隠しをしてトランスを演じることの意味、価値は理解しやすいだろうか。

多分、実際に観て、理解できるかどうか、というのは、おそらくほとんど問題じゃないのだろう、一般的な「わかりやすい」イメージというのが、多分あって、そこに当てはまるかどうかが全て。
そのイメージに当てはまらないと、100人が観て100人が理解しても、「わかりにくい」ということになるんだと思う。
逆に、「わかりやすい」イメージに当てはまれば、100人観て0人が理解しても、「誰にでもわかりやすい」作品です。
構造としては、放送禁止歌に近い。
禁止されそうな曲は、禁止されそうだから流さない。
誰かが文句言いそうな曲は、禁止されそうだから、放送禁止歌になるんじゃないか、おいおい、あいつ、誰かが文句言いそうな曲流したぞ、悪いやつだ、ほら、誰かが文句言いそうじゃないか、だれかが傷つきそうじゃないか、俺たちは、誰かが文句言いそうな曲は禁止するぜ、良い事してるだろう、だって誰かが文句言うのは悪なんだから、誰かが文句言うかもしれないことも、もちろん悪だぜ。

この「誰か」、とは、もちろん我々が、物心ついたときから、叩き込まれてきた「みんな」です。
「みんな」が嫌がることはしてはいけないのです。
「みんな」が嫌がりそうなこともしてはいけないのです。
「みんな」が喜びそうなことをやるべきです。
結果だれも喜ばなくても、「みんな」が喜ぶと思ってやったことは善行です。
だって「みんな」の事を考えることは、とても良いことだから。
「みんな」がやっていることはどんなに悪いことでもやって良いのです。
「みんな」がやらないことはどんなに良いことでもやってはいけないのです。

先日、電車の中で、ドアを蹴り続けている酔っぱらいが居た。
ドアはどんどんボッコボコになっていく。
車内の全員が注目している。
しかし、決して彼を注意してはいけないのである。
だって「みんな」注意しないのだから、「自分だけ」注意してはいけないのです。
「みんな」うるさくて迷惑しているけども、「みんな」我慢しているんだから自分も我慢しなくてはいけないのです。
そして、「みんな」で、この人迷惑ねぇ、という顔をして、「みんな」で「みんな」になるのでしょう。

そして「みんな」が理解していて「自分だけ」理解できない、という事はとても悪いことです。
逆に「自分だけ」理解できるということも悪いことです。
「みんな」同じじゃないといけません。
同じお金を払ったら、「みんな」同じだけ幸せにならないといけません。
不公平は悪です。
だから、文句を言われるのでしょう。

ピカソの「ゲルニカ」は、「わかりやすい」とも言えます。
見た人は、戦争の悲惨さを感じる、という風に決まっているからです。
学校でそう習いました。
「ゲルニカ」を見て、「みんな」が戦争の悲惨さを感じると先生は言っていました。
ピカソが戦争の悲惨さを伝えるために描いた絵なんだから、戦争の悲惨さを感じないとダメです。
作者の言いたいことを的確に理解することが正しいのです。
当時、教科書のゲルニカを見て全くピンとこなくて、後ろめたい思いをしたのを覚えています。
芸術家は、作品のテーマを的確に言えないといけません、インタビュアーは「この作品のテーマは何ですか?」と絶対に聞かなくてはいけません。
それを知らないと、間違えて作品を捉えてしまうからです。
「みんな」が作者の意図通りに捉えられないことは悪いことです。
「みんな」が「同じ」お金を払っているのです。
「みんな」が「同じ」正解を得られないといけないのです。

この「みんな」になることに夢中な人には、多分芸術は必要がないでしょう。
芸術は、この「みんな」から外れ、自分と向き合うものだと思います。

以前終演後に「私はこの作品が全く面白くなくて、見ていたお客さんもみんなつまらなかったはずです」と言われたことがある。
もちろん丁重にあやまりました。
そのお客さんにとっては、自分だけつまらなかったなんて事はあってはならない。
そして、「みんな」がつまらなかったものを見せた作者は悪人なので懲らしめなくてはいけないのです。

さて、ここまで「みんな」がまるで悪いことのような書きっぷりですが、「みんな」が悪いわけではなく「みんな」が「同じ」を求める、というところが問題なのだと思います。
対価として、「みんなが同じ正解」を得られる、という幻想が、それ自体は悪いことではありませんが、芸術に関しては問題です。
優れた芸術作品は「みんな」が「それぞれ」自分と向き合えるものだと思います。
そもそも「みんな」が「同じ」ように自分と向き合うことは不可能です。

しかし「みんな」が「同じ」状態を幸せだとさんざん叩き込まれてきたのに、「みんな」を気にせずそれぞれが楽しむ、なんて事を今さら言われても、困ります。自分が感じたことを楽しんで良いなんて、悪いことのような気がします。
これは我々にはしょうがないことだと思います、だって誰もそんなこと教えてくれなかったわけだし。
芸術鑑賞会では、作品のテーマは何だったか、作者は何を言いたかったのかを書かされてきたわけだし。
感想文は、自分の感想を書く為のものじゃなくて、良い感想文を書く為のものだったわけだし。


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うーん、この後1時間くらいかけて書いたことが消えたなー。最悪だなぁ。
まぁ思い出せる範囲で書きます。
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全ての人に芸術を楽しむ権利があります、しかし全ての人が楽しめるわけでもない、と思います。
全ての人に「みんな」から外れる権利があります、しかし全ての人が「みんな」から外れて楽しめるわけでもない、と言うことなのかも知れません。

おそらく、これを読んでくれている人で、「みんな」が「同じ」を求めている人は少ないと思います。
そもそも、そう答える人は少ないのだと思います。
しかし、我々は集団になったときに「みんな」の呪縛にとらわれてしまう傾向があります。
もうこれは呪いです。

日本のお客さんが、作品がつまらなくてもなかなか途中で帰らないのは、劇場の構造の問題もありますが、この呪いのせいだとも思います。
「みんな」帰らないから。僕は帰って良いと思います。劇場は、「みんな」と「それぞれ」が同居する場所だと思います。帰るにしても「みんな」への配慮はもちろん必要ですけども、この配慮は「みんな」の日本人の良いところだと思います。

「わかりやすい」作品というのは、この「みんな」の文脈で作られているものだと思います。
多くの人が、「同じ」「正解」を獲得できるもの。
芸術作品が「みんな」から外れて、楽しむものだとすると、程度によりますが「わかりやすい」作品というものは、芸術作品とは違ったものなのだと思います。それが悪いものだとは思いません。
ただ、僕は、「みんな」の呪縛から逃れたいと思っているので、「みんな」の文脈で作られた「誰にでもわかる」作品は、それを楽しむことも出来ますが、あまり心動かされません。

「わかりやすい」のほぼ対極に「わかる人にだけわかる」というのも存在しています。
大抵悪い意味ですね。
これも、わかる=理解する、正解を得る。という、「みんな」の文脈で語られているのでしょう。

例えば、何千枚も絵をみている人が、今まで見たことのない「色」で描かれている絵を見たら、それはそれは心動かされる事でしょう。
初めて美術館に行った人が同じ「色」をみるのとは違う心の動かされ方だと思います。
しかし、その初めての人も、心動かされる可能性はあるでしょう。
そこに価値の違いはそんなに無いと思います。

しかし、問題は、心動かなかった場合、ですね。
簡単です、それは今のあなたには趣味が合わなかったのです。
どこかにあなたの心が動く「色」があるのかもしれません。
もしかしたら明日は心動くかも知れません。何度も美術館に通えばいつか心動くかも知れません。
でも今趣味の合わないもので無理に心動かす必要はないでしょう。
悪い意味で言われるのは、「自分だけ」心動かない、のが「みんな」の文脈だと悪いことだからです。
そもそも、心動かないと自覚できていれば問題ありません、「わからない」と感じてしまうことが問題です。
初めて触れるものに対して、自分は、これを「わかる」ことができる「みんな」の枠外にいるので、「わかる」ことが難しい、という思いこみもあると思います。
そもそも「わかる」為のものではないのですから「わからない」のは当然のことです、が、「わからない」理由は、自分が「みんな」の枠外だから、と誤解してしまうのです。
「みんな」の呪縛は、「わかる=正解を得られる」という幻想を抱かせます。
「みんな」から外れて自分の感触を楽しむ、という芸術鑑賞の楽しみを奪います。

我々は、心動かなかったものに、「わからない」と言い、「わかりにくい」というラベルを貼りがちです。
趣味が合わなかったとはなかなか言えません。
だって、自分がわからなかったものは、「みんな」もわからなくないと、もう気が気じゃありません。

そして、「わかりにくい」ラベルは、人々を幸せにします。
わからなかった人が「みんな」になれるのです。

「わからなかった」という人に、「まぁ、あれはわかりにくいからね」というのは優しさです。
「え、あれがわからないの?」というのは、「みんな」から追い出す死刑宣告です。
「みんな」は優しいので、だれかが「わからなかった」ものに対しては「わかりにくい」と言ってくれます。

よく、演劇初心者には勧められない、と言いますが、正確には「みんな」の呪縛にとらわれている人には勧められない、だと思います。

僕の作品は、「みんな」の文脈では間違いなく「わかりにくい」です。
当然です、そういう作りになっています。
「みんな」が「同じ」事を正解だと思わないように、作っています。
「わかる=心動かされること」ならば、できるだけ多くの人にわかって欲しいと思って作っています。
結果はわかりませんが、姿勢として。

ゲルニカはこんなのどう考えても「わかりにくい」でしょ。
ただ、ゲルニカは多くの人の心を動かしたのです。さすがピカソ、天才です。
しかし我々は、「みんな」の文脈での見方を教わってきました。でも芸術としての見方もできます。
それは、絵画は芸術だとも教わったからです。
「みんな」から外れて楽しんで良いんだと、「みんな」が知っているのです。
演劇と違って。

でも実際、観客全員が「みんな」の呪縛にとらわれている、ということもあります。
彼らには、「みんな」が「同じ」ように獲得できる「正解」を与えるべきでしょうか?
それが芸術活動と言えるでしょうか?
僕は、たとえ多くの観客に「わかりにくい」ラベルを貼られようとも、一人でも「みんな」の呪縛から逃れて、楽しんでもらう事が出来るならば、作品を上演したいです。という心意気です。
多分、「みんな」の「正解」を提示してしまうより、数は少なくとも、呪縛から逃れられる人を解放できる可能性は高いと思っています。
ぬるいやり方では、なかなか逃れられないと思ってます。

まぁでも実際は、「みんな」の呪縛を無視することは出来ません。

公共ホールではなかなか難しいというのも前述した通りです。

でも、公共ホールでやらなくてはいけないとも思っています。

全ての人に芸術を楽しむ権利があるのですから。

東京デスロックが、キラリ☆ふじみを拠点にしているのは、幸福にもそこを理解してもらえているからです。
でも、恐らくどこの公共ホールも、似たような悩みを抱えているのではないかなぁとも思っています。
どうでしょうか?


これは、国民性の問題でもあるので、本当に深刻です。

でも、戦うしかないのです。

共に戦う、とまではいかなくとも、同じように戦っている人達と出会いに、東京を出ます。


興味があれば、是非キラリ☆ふじみまで、戦い様を観に来てください。
個人的には、その姿を東京の観客に見て欲しいと思っています。
もちろん地方にも観に来て欲しいです。

「わかりやすい」でもやもやしていたのは
・わかる=理解する、正解を得る。
・心動かす
の二つを混同していたからだった気がします。

ちなみに、「呪縛」というネガティブな言葉を使っているのは、「みんな」の呪縛がかかっている理由は、我々がその状態だと、得する人達がいて、日本の外で、「みんな」が「同じ」じゃない事をウリにしているアイツらのせいじゃないかと思ってるからです。
優れた芸術なんか育ててる暇あったらお前ら働けって感じでしょう。



うーん、消えた分の3分の2くらいかなぁ。
まぁこんな感じで。

あ、そうだ、もう一つの問題は、ストーリー至上主義。
ストーリーがわからないものは、「わかりにくい」とされる。
ストーリーそれこそが、正解、とされている。
まぁそれはまたそのうち。





初コメントです。

同感です。
まだまだ分かりやすさの病にかかっている方が多いです。
要は、自分の考えで感想を述べることになれていない方が多いのと、見たことのない芸術を許容するキャパが無い方が多いのだと思います。

でも「分かりやすさ(大衆性)」は、一つの要素だとも思うのです。商業演劇や大衆演劇(テレビならNHK)に、一定の分かりやすさは必要でしょう。

大衆性・娯楽性 = 間口の広い芝居
社会性・芸術性 = 奥行きの深い芝居

公共ホールの演目で考えれば、バランスのよいラインナップが組めれば、分かりにくい芝居があってもいいと思います。舞踏をフランチャイズカンパニーにした例もあるし。

以上、ひとりごとでした。

応援しています、頑張って下さい。
【2008/12/19 16:42】 URL | T2O #-[ 編集]

ご意見ありがとうございます。
まぁ基本偏ってますので、すいません。

恐らく世の中は「分からない」=「楽しみ方が分からない(面白くない)」 までは進んでいるんですね。ちょと安心しました。

まぁでも、楽しみ方か、それもなかなか難儀な問題ですね。
【2008/12/03 16:21】 URL | JNSK #-[ 編集]

長文、がんばって拝読しました。

結論(? の出るような問題でもないと思うのだけれど)で書かれている;

> 「わかりやすい」でもやもやしていたのは
> ・わかる=理解する、正解を得る。
> ・心動かす
> の二つを混同していたからだった気がします。

の部分は理解できるのですが、ちょっと、偏っている感じがしましたので、コメントさせて頂きます。

僕が東京以外の地域での公演や、世代の異なる観客との出会いで気づいたのは、

「分からない」=「(楽しみ方が)分からない」

という意味で使っている人が多いのだなあ、というシンプルな事実でした。

あるいは、「分からない」=普通に「(意味が)分からない」というもので、だけどそれと「面白さ」とはどうやら違うらしくて、

例えば、うちの母が、(彼女は所謂“現代演劇”をほとんどみたことがありません。能・浄瑠璃はよく大阪まで観にいっているようですが、)「マレビトの会」を観た時の感想が、「よく分からなかったけど面白かった。」でした。(彼女は僕の作った芝居も割と毎回観てくれているのですが、昔はよく「お前のやりたいことがよく分からない」といわれました。最近は、それでも昔と比べるとずいぶんと楽しんで、見てくれているようですが。)

何が言いたいのかというと、少なくとも僕の周りでは、

「分からない」=「みんな」の「正解」が示されていない

という意味ではなく、

「分からない」=「楽しみ方が分からない(面白くない)」

という意味で使っている人が多いようです、ということです。

まあ、多田さんと僕とは生活環境も創作環境も(同じ東京にいながら!)ずいぶんと違うようなので、比較論だけじゃ、なんとも言えないのですが。

【2008/12/02 17:08】 URL | ysht.org #mQop/nM.[ 編集]















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