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今日は昼間に一つ打ち合わせ。
あの、柴幸男と一緒に。
まぁ芸術見本市の。

夜はずっと気になってた芸団協のラウンドテーブルに行ってみる。
今日は高萩さんと大島さん(四季→ぴあ→新国立→銀河劇場という経歴!)の話。
話の内容も面白かったし、こういう事が今行われていることについても色々考えられて良かった。

本当は、明日親父の納骨なので今夜中に実家に帰るつもりだったんだけども、せっかくなので、何人かで飲みにいった。
そこでも色々考えることが出来てよかった。

たとえば、商業ベースで作品を作る場所にいる制作さんとも話せて、もっとちゃんと話せればよかったんだけども、話し足りなかったことを少し書いてみる。
ここ見てくれると良いんだけども。

僕は、演劇製作を絵を描くことに例えることが多くて、これは極端な例えなんだけども、今日演出家がプロデュース公演を受ける場合の条件の話がでて、それを例えてみる。


壷の絵を描くとしよう。

僕は、絵描きだ。

壷は、戯曲である。
作家は、その壷の作者だろう。

塗料が俳優であるとする。
絵の具なのか、油なのか、墨なのか、多様な選択肢がそこにはある。

キャンバスは劇場と言えるかもしれない。

通常僕は、壷を選び、どこに、何を使って書くかを選んでいる。
それによって僕の絵は、僕の能力のある部分を最大に発揮するだろう。

絵描きによって、具象的にその壷をトレースする人もいれば、抽象的に描く人もいるだろう。
僕の場合は、その壷の造形から例えば「女性」という印象を受けた場合、キャンバス上には、女性の裸体が描かれるかもしれない。
せめて、女性の体によってその壷の造形が描かれている絵、くらいにするかもしれないし、キャンバス全面に女性の顔面しか描かれていないかもしれない。
僕にとってはその壷の絵だ。
演出とはそういう作業だと思っている。

最初に気にするのは、製作側は、僕にどんな絵を描いて欲しいのかということと、その理由。
別に具象的に描いてくれと言われることは悪くはない、その理由に僕が納得できれば。
それが、単純に、私達の好きな絵は具象的な絵なので、それを描いてくれ、と言われたら描かないだろう。
あなた達の都合では作れない。

女性の体を使った作品や、顔面を描いた作品を経てきた僕の作品の流れの中で、今、僕が具象で描くことによって生まれるものを見たい、と言われて、僕の気分もそんな感じだったら、描いてみるかもしれない。

例えば、壷も用意されて、キャンバスも用意されて、絵の具一式も用意されていることはあるだろう。
おそらく、そういう場合のほうが多いのだろう。

「この絵の具で描いてください」という事は、多いと思う。
そこに、普段絵描きが、絵の具選びにどれだけの魂をかけているか、自分の作品において、塗料の選択がどれだけ重要なのか、という思いを知っているかどうかについての疑問は生まれる。

おそらく、実際の絵描きには、そんなこと言わないだろう。しかし、演出家は言われる。
それは、まぁ実際絵描きとは違う職業なので致し方ない部分はあるにしろ。

ならば、僕には、なぜその絵の具で描いて欲しいのかの理由が必要になる。
「この絵の具のメーカーがスポンサーだから」
という事もあるだろう。
では、なぜそのメーカーと僕を引き合わせるのか、と言う理由があるべきだろう。
すくなくとも、僕はそういうことは考えていきたい、自分を守る為にも。

アーティストは傲慢だ、ということが分ってもらえただろうか。
そうでなくてはやっていけないのです。やっていけないのです。

我々は、商品を作ることを生業にはしていない。
商品を作ることに参加することは否定しない、けれど我々の志は違うところにある。
そこを理解してもらえているかどうかだけなのかもしれない。

チケット料金をとっておいて何を言っている、と思われる人もいるだろう。
ただ僕は、お金は、買い物の為にだけあるとは思っていないのです。

自分の活動によって得た金銭というものを、何かを得ることに使うこともあれば、自分の行動に使うこともある。
商品は、その物自体への対価が問われると思いますが、芸術に関しては自分の行為に対して、上手く言えませんが、自分自身に対する循環、金銭という形は一時とっているにしても、金銭を得る為に為した自分の行為の循環という感覚を持っています。
金銭ですから、その都度支払える金額は違いますが、僕は例えば1万円の価値は、その瞬間は変わる、それは爽快な感覚すら覚える。

実は、2500円でこんな面白い芝居が見れた!とか、10000円払ってこんなにつまらなくて損した!とか、思ったことがほとんどない。ここ数年は、無い。
それは、僕が作る側だからということもあると思います。


あと、Twitterでちょっと書いたことも少し。
制作者とアーティストについて。
これは、自分の失敗に基づいて、ここ1年くらい考えていたことがあって、それがたまたま今日新たな実感として感じられた、と言うだけの話なんだけども。

制作者に限らずだとも思う。
たとえば、批評家とアーティストも当然立ち位置は違うものです。
見ている場所が違うので、考えていることも違う。
ただ、共通点ももちろんあるし、議論も出来るとは思う。
むしろ、位置が違うからこそ議論に意味があるのだと思う。

今までは、同じ位置からものを見ていると思っていた。
今は、位置の違いがとても重要なのだと思えるようになった。
自分の為すべきことや、相手に期待することも変わってきた。

僕の辿ってきた環境や、時代もあるかもしれないが、僕自身今思えばぶれていたのだろう。
そのブレは、幸運なことに、小さなブレのうちに失敗をできたということが幸運だったと思う。
これも数年後に思い返したら、まだまだ危うい考えだけども。



で、関係ないけど、とても言いたいことを最後に。

今、キラリ☆ふじみでは、市民による絵画の大作展をやっている。
見に行った。
とても素晴らしかった。

キラリ立ち上げから関わっている陶芸家の野村さんの絵は個人的にはとても素晴らしかった。
野村さんを知ってる方は是非観て欲しい。
それは、今まで触れていた野村さんと、作品を通じて別の関わりができたと言う部分が大きいのだけど。
しかし、僕にとってはそうなのです。

他の作品もとても素晴らしかった。
作者にとっては、この作品を作る過程で、色々なことがあったと思う。
作り上げた瞬間の何ともいえない充実もあったと思う。
芸術は、我々のものだ、と思った。

そして、それを観に来る人たちがいる。

野村さんの絵の前で、小学生が、「うわ、この絵怖い~!」と言ってる横で、僕はただただニンマリしていた。
なんて幸せな瞬間だろうと思った。

主婦の方々もやってきた。
「あら、私この絵好きだわ~」と言っている横で、僕はただただニンマリしていた。
なんて幸せな瞬間だろうと思った。

これに関しては、なにがニンマリなのか、なにが幸せなのか、説明する気にあまりならないです。

それくらいで幸せ感じてるなんて甘ちゃん、なのかもしれません。
でも、キラリでこういう体験を出来ることが、この5年間の自分を支えていることは確かです。

僕は、この大作展を、とても素晴らしいと思うし、この作品達を、展示室で一時期飾るだけじゃなくて、場所を設けて、入れ替えていくにしろ、劇場に常設したいと思っている。
もちろん絵画に限った話じゃないです。こういった作品が常に劇場で見られることはとても大事だと思ってます。

この後には写真の大作展もある。
楽しみでしょうがない。

あ、あとモモンガ・コンプレックスの公演が今週末にあります。
楽しみでしょうがない。



















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