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そうそう、二兎舎の「かたりの椅子」で、一番笑えなかった(つまらなくてじゃなくて)シーンがあって、
多分これは他の観客との違いが一番あったであろうシーンなんだけど、それについて少し。

ある芸術家がいて、彼が、椅子を作ってるんだけども、その彼が、椅子と会話をするシーンがある。

「そうかー、お前、丸くして欲しいのかー」
「よーし、じゃあ丸くしてやるからな」

台詞はうろ覚えだけど、こんな感じ。

客席は、大爆笑。

芸術家の良くわからない発言を上手いこと抽出した、良い台詞だと思う。
この作品の素晴らしいところは、こういった部分も、ちゃんと喜劇として完璧にできているところ。

でも、俺は全然笑えない。

椅子と会話すること、多分これは表現のかなり根本にある行為で、口には出さないまでも、日頃自分は戯曲と話していると言える。

「どうして欲しい?誰にどう発話されて世の中に存在したいんだ?発話も必要ないか?字幕の方がいいのか?」
「そうか、100㎏の重りを背負った中年男性が急な坂を登り切った後に、息も絶え絶えで絶叫されたいか、そうか」


というのがまぁ演出家の戯曲に対するひとつの接し方だろう。


話す、と言うと、では、「かたりの椅子」の彼に、椅子の声が聞こえているのかどうか?
俺に戯曲の声が聞こえているのか?
ここが結構重要なポイントです。

彼には、聞こえています。

おかしいと思いますか?椅子が喋るわけ無いですか?

じゃあ、相手が人ならどうでしょう?


A「私、パスタが食べたい」

B「そうか、じゃあ食べに行こう」


まぁこれは、問題ないですね。


A「私、パスタが食べたい」

B「そうか、じゃあお好み焼きにしようか」



これはどうでしょう、おかしいですか?
じゃあこれはどうでしょう。


A「私お好み焼きが食べたい」

B「俺パスタかなー」

A「私、パスタが食べたい」

B「そうか、じゃあお好み焼きにしようか」



これなら大丈夫でしょうか。行間を読んで下さい。
では、これは?


A「私お好み焼きが食べたい」

B「俺パスタかなー」

A「私、パスタが食べたい」

B「そうか、じゃあお好み焼きにしようか」

A「え、なんで?パスタで良いじゃん」

B「だってお好み焼きが良いんでしょ?」

A「いや、だから、パスタって聞いたら、パスタ食べたくなったの」
  
B「なんだよ、じゃあパスタにするか」


さぁ、Aが食べたいのはパスタでしょうか、お好み焼きでしょうか。

答えは、まぁ「わからない」ですね。
どっちとも取れますね、Bに気を使ってるのか、本当にパスタが食べたいのか。
話が逸れますが、これを上演する場合、どっちかにも、どっちとも取れるようにも想像させることができますね。
まぁどっちかにしか見えないなんてもったいないと思いますが。

さて、
我々のコミュニケーションというのは、ベースの部分に、相手の言動なりから相手を想像して、自らの言動を起こす、というやり取りがあります。

そのため、相手への想像力、というものが、とても大切になります。
コミュニケーションに関する問題は、ここにあることも多いです。
僕のWSでもよく取り上げる部分です。

相手の考えている事なんて、わからない。
この前提が大切です。

あくまで、自分の、想像にすぎません。
集められた情報から、かなり精度の高い想像も可能です、しかし、想像は想像です、本当にパスタが食べたいのかは、本人にしかわかりません。
「本当にパスタが食べたい」と相手が言ったところで、やはり言われた側が想像して、この言い方は、多分本当にパスタが食べたいんだな、と判断するだけです。

自分の事を相手がわかっている、もしくは自分のわかっている(と思っている)ことは相手もわかっている、という誤解が、種々のトラブルを生むことも多いですね。

相手のことはわからない、からこそ想像する、とも言えます。
わかり得ないことだけども、わかろうとする。
だから、伝わった(と思えた)時に嬉しいのでしょう。
とても素晴らしいと思います。人間って良いな。


さぁ、ではでは、本題に入ります。

私たちは、コミュニケーションをとるときに、相手の言動などから、想像して行動します。
相手からの情報を元に、想像して、行動します。

想像力、これが大切です。


芸術家の彼と椅子の話に戻ります。

椅子を見たとき、その色、形などの情報が彼には入ります。

彼は想像します。

「丸くするといいんじゃないか?だってこのヘリの部分、微妙に曲線を描いている、この曲線を広げていくことで全体のバランスも座りやすくなる。」

「このヘリの曲線、これは全体に広げて欲しいというサインだ」

「そうか、丸くして欲しいのか、よし、丸くしてやるぞ」


もちろんこれが、人対人のコミュニケーションと同じだとは言いません。
しかし、彼側の構造は同じです。
相手が人であれ、椅子であれ、キャッチした情報から想像するだけです。


芸術家とは、想像力に長けている人です。
しかし、ベースは、他の人と変わりません、誰にでも想像力はあります、ただ、長けていたり、独創的であるだけです。

WSでもよくやりますが、一般の人でも、想像力をもって、モノとコミュニケーションをとることもできます。

コミュニケーションとは、自分の想像の問題ですから。


恐らく彼は、椅子とのやりとりを声に出すことで、自分の想像力をさらに刺激しているのでしょう。
彼に起きている現象を、もっとも一般的にある表現で説明すると、椅子の声が聞こえる、という事になるのでしょう。
椅子と会話している姿が一般的かどうかの自覚に関しては、変人かも知れません。
自分が他人にどう見えているか、それよりも、自分の想像を膨らませることの方が優先されていても、それが彼の仕事ですから。
まぁ喜劇に出てくる人物ですから、それ位じゃないとね。


俺が笑えなかった理由は、椅子と会話することが、普通の事(一般的に変とされているとしても)に思うことができるなぁ、と、思ったからです。

で、芸術に対する理解はいつまでこういう感じかなと。

学校の授業では芸術の何を教えているんだろうかと。

僕のWSを受けた人は、彼の言ってることを理解までいかなくとも、どういう構造で椅子と会話しているのかは理解してくれると嬉しいな、とか。

芸術家が笑われて悔しい、とかでも、あんな風に描くのが酷い、とかまったく思ってないんです。
ただ、芸術家は、訳分かんない事言って、椅子と会話とかしちゃう、という変人扱いで終らせるよりも、
椅子と話すという構造をわかっていたほうが、おそらく芸術を楽しむには良いんじゃないかと思っています。

演劇を観ていて爆笑しているのに、芸術を理解しないこと、がその笑いを生んでいる、という所に、永井さんの言われる「背筋の凍る喜劇」をとても感じた。
もちろん大筋そのものが背筋凍りまくりなんだけども。
ほんと、良い作品だなぁ。


で、僕は、世の中の認識として、

『人は、椅子と話せる(笑)』

くらいになるといいなぁと。

僕が一般の人とワークショップをやり続けるのは、この辺りに理由があります。
コミュニケーションや想像力について関心を向ける時間を過ごしてもらうことも大切で、そして、同時に芸術への距離を近づけてくれると思ってやってます。

演劇のワークショップがコミュニケーション能力育成に役立つ理由の一つです。
僕は、芸術から、日常のコミュニケーションに繋がっていって、そこからまた芸術に戻ってこれる、そしてもっと近くに戻ってこれるようなワークショップをやっていきたい。

ただ、芸術家がこんなこと考える、必要は、ない、とも思ってる。

ワークショップなら、コーディネーターや依頼主が考えるし、劇場ならプロデューサーが主になって考えるだろう。
ただ、分業は、あまり創造的なことは起きない、と思ってる。
芸術家も考えているし、プロデューサーも考えているし、それでいいと思う。

芸術監督も考えてるし、演出家も考えてるし、プロデューサーも考えてるし、劇場職員も考えてるし、他のスタッフもみんな考えてる、自分の担当以外のことだって考える、参加していく、そうじゃないと楽しい事なんて出来ないとおもう。





このコメントは管理人のみ閲覧できます
【2010/04/12 22:33】 | #[ 編集]

まぁ大人を変えるのは難しいんだけど、でも、こういうことは体験すればすぐ分る、難しいことじゃないんだよね。
中学生くらいでこういう体験を一回しておくだけで結構違うと思う。
ちなみに、60、70代の人でも俺のワークショップで、床と話したり、壁と話したりしてくれます。
まぁ皆出来る、と言い切っちゃうとそれも危険なんだけども。
【2010/04/09 01:12】 URL | 多田淳之介 #-[ 編集]

多田がどんな仕事してるのか、ちょっとわかった。あと、ものごとの本質ってそうやって見るんだって勉強になった。けど、感性がないと無理なのかも。そうやってみるようになると身につくのかな。
【2010/04/09 00:42】 URL | ♡megumi♡ #-[ 編集]















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